政治と経済
無菌室の言葉 - ポリティカルコレクトネスと「きれいごと」
Glass Story
ポリティカルコレクトネスとアメリカ
日本は「空気」を読んで発言を自粛する。マスメディアの「自主規制」という言葉もある。
一方で、アメリカは、自由に表現のできる懐の深い国だという印象がある。
しかし、実際は、アメリカもまたずいぶんと厳しい環境に自分自身を縛り上げているようだ。
アメリカの「ポリティカルコレクトネス」に関する記事 - アメリカ人、差別批判が怖くてうかつに口を開けず | JBPRESS - によると、特に意識の高い知識階級を中心に、差別や中立の呪縛に囚われた結果、沈黙を余儀なくされる傾向にあると言う。
ポリティカル・コレクトネス(英: political correctness、略称:PC)とは、政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す。
たとえば、ある大学では、多種多様な文化が共存することを指す「人種のるつぼ(America is a melting pot)」という言葉は、個々の文化を軽視する、といった理由から禁句とされた。
また別の大学では、SF小説好きのサークルが、宇宙イベントを開催し、宇宙船やエイリアンの写真を展示した。そのとき振る舞ったメキシコ料理が問題となった。
エイリアンは、異邦人的な排他性を帯びたニュアンスを持ち、その大学には、親が不法入国したため正式な入国書類を持たないメキシコ人学生もいた。
メキシコ人はエイリアンということか、と抗議の手紙が届き、大学は、謝罪と、イベント開催に至っては「文化習熟トレーニング」を義務づけることを発表した。
張り巡らされた「ポリティカルコレクトネス」の呪縛。
果たしてこの言葉は「政治的に中立で、差別の表現を一切含んでいないのだろうか」と自問自答する。
あるいは、四方八方からの大小様々な抗議の声に、喉元がこわばり、声が出ず、ついには沈黙する。
トランプとクリント・イーストウッド
このわだかまりを払拭するのが、「きれいごとはよせ」と、差別や偏見を汚い言葉で列挙する共和党のトランプ候補である。
彼は、その「きれいごとはよせ」という一点で支持を集める。
そして、先日、映画監督のクリント・イーストウッドも、トランプ氏の支持を表明した。
その支持は、彼の差別的な発言の「内容」に向けられたものではなく、その「姿勢」に対するものだと言う。
内心ではみんなポリティカルコレクトネスに媚びるのはうんざりしているんだ。俺たちは今、お世辞だらけの時代に生きている。俺たちは本当に、軟弱な時代にいるんだ。誰もが細心の注意を払っている。みんな、レイシストだとか何だとか責めているのを目にする。
出典 : クリント・イーストウッドがトランプ氏支持 「軟弱な時代だ。誰もが発言に細心の注意を払う」 | The Huffington Post
悲しくなるような時代だ、とイーストウッドは言う。
中立的な言葉
もちろん、乱暴な排他的活動にはうんざりだ。でも、僕自身、「きれいごとはよせ」と思うこともある。
特に、「差別と区別は違う」とか「中立的じゃない」、「それで傷つく人もいる」などといった「きれいごと」を聞くと、悲しみと悔しさで喉元まで押し寄せてくるものがある。
彼らは、日々の自らの「言葉」を、血まみれになってセルフチェックしているんだろうか、と思う。
自らの言葉に巣食う、差別性や非中立性、また背後に消えていく「だれかの涙」に耳を傾けているのだろうか、と。
愛の歌は、愛を与えられなかった少女を孤独に追いやる。
温かな家族写真は、家族を失った誰かの胸を痛める。家族を失った誰かの再生の物語は、始めから家族のいなかった人の透明の涙に繋がる。
言葉には、必ず差別と偏見が、「傷つけること」が含まれている。そういう宿命を背負っている。
それは、体内に無数に細菌が存在しているのと一緒なのではないかと僕は思う。
その事実を無視して、ただ闇雲に殺菌をほどこし、「きれいごと」によって無菌室をつくっても、僕たちはただ、「沈黙」するだけのことである。
沈黙し、窒息死するか、「きれいごとはやめろ」と暴発して、着飾った服を脱ぎ捨て、素っ裸で踊り狂うか。
どちらにせよ、どちらかで解決すると考えていることそのものが「きれいごと」だと、僕は思う。
時間はまだ、ずいぶんと掛かる。


